
リモン峠の慰霊碑

隣の碑文揮毫は千葉県護国神社の竹中宮司
昭和19年12月25日、フィリピンレイテ島での日本軍とアメリカ軍との決戦が終結しました。 リモン峠の主力部隊は陸軍第一師団第57連隊。通称「佐倉連隊」です。 その佐倉連隊はこの戦いでほぼ壊滅状態になり、レイテ島撤退後に隣のセブ島に辿り着いたのは約90名とされています。 しかし、その勇敢な戦いぶりは敵であるアメリカ軍の司令官からも称賛される見事なもので、本土決戦を遅らせたと言われます。 この度、神道政治連盟千葉県本部主催のフィリピン英霊並びに戦没者慰霊祭に参加するにあたり、宮司なりにその戦いを調べてみました。いずれも素人の事なので時系列や心情に相違があるかもしれませんがご容赦下さい。 佐倉に軍関係が置かれたのは明治6年に第一軍管東京鎮台佐倉分管が最初で、その後歩兵第2連隊が入り配転により明治42年に習志野から第57連隊が来ました。これが世に言う「佐倉57連隊」です。 大東亜戦争に於いて佐倉連隊は最初は北満国境付近でソ連対策の猛訓練を積み、その後フィリピンに転戦しました。 当社の先代宮司は学徒出陣組で國學院大の学生時に応召。佐倉連隊に配置の後に朝鮮半島から牡丹江へ入り終戦。シベリア抑留となりました。 その先代に聞いた話ではとある港で佐倉連隊の仲間と出会った際に転戦先を聞くと皆ニコニコしながら「フィリッピン!」と答え、逆に先代にどこに転戦かと聞き「北の方」と返答すると、「うちらはあったかいところに行くんだ」と手を振り船出をしたそうです。 この話をしてくれた後に先代は少し時間をおいて「あったかい方に行った奴らは皆んな死んじゃったよ」とポツリ言ったのです。 戦況の詳しい事は今日は書きませんが、リモン峠の戦いで佐倉連隊は約2000名が亡くなりました。 今日の献花式では、式典の前にお供えとして佐倉から持参したヤマニ味噌のお味噌とアンパン。そして酒々井は飯沼本家の仕込み水を大前に、船橋大神宮の千葉宮司さんがご持参された船橋のお水も。 やっと、やっとです。麻賀多神社の宮司として、麻賀多様の大前でお参りをして、御朱印を鉢巻に頂き外地に出征し散華された英霊の御霊にご挨拶が出来ました。 当地では未だに英霊の亡骸が土の下に眠っております。厚生労働省には「フィリピンでの遺骨収集は完了した」とは言わず、今後とも祖国日本に英霊の一柱ももれなく帰国させて頂きたい。 実際には全部が無理であるのも判りますから、一昔前の柱でも諦めずにお願いいたく。禰宜の祖父もサイパンのテニアン島にありますから… もっと書きたい事は沢山ありますが、明日はフィリピンの首都マニラがあるルソン島において「フィリピン方面戦没者慰霊祭」が日本政府が建立した慰霊碑にて斎行されます。 そのことも合わせて、また明日に駄文にお付き合い頂ければ幸いに存じます。 慰霊碑での献花式の後にレイテ島タクロバン空港からマニラに戻り、直会と若手後輩との懇親をしました。 皆、今日の参列に感謝と誇りを持ってくれております。その姿と話を聞いただけで佐倉の宮司として有り難い限りです。
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