七峯の丘から

落合陽一さん来倉 [令和6年4月8日]

「先ずは正式参拝」
 それは10日ほど前の一本の電話から始まりました。電話の主は石清水八幡宮権宮司の田中朋清さん。
 田中さんとは青年神主の組織である、神道青年全国協議会の役員として同席しており、卒業の後もなにかと顔を合わせる機会がある同志です。
 でもって電話の内容ですが、千代田区が主催予定の江戸天下祭り関連の企画展示に対して、佐倉にある山車の調査がしたいとの事。
 天下祭りとは、徳川幕政時代に江戸の日枝神社と神田神社の氏子町の山車が江戸城、今の皇居の中に曳き込まれて将軍の上覧を得た事によります。
 麻賀多神社の氏子町には、明治12〜13年に今の東京馬喰町あたりにあった関岡装束店の仲介によって7本の山車、もしくは山車人形が来ております。
 それぞれ日枝神社と神田神社の氏子町が所有していた物ですが、そのまま東京にあったなら関東大震災か東京大空襲で灰となっていたであろう貴重な物です。
 今回は企画展示のメンバー、また調査企画として、筑波大学准教授の落合陽一さんが参画。日枝神社と神田神社での取材の際に佐倉の話が出て、同席していた田中さんが「佐倉の神社。あ、宮本さんのところじゃない!?」として、その場で電話を掛けていたという。
 まあ、神社界というのはせまーい世界ですから、皆が先輩・同輩・後輩でして、・笑
 今回の目的は江戸檜物町にあった玉乃井龍神の山車人形の調査。現在、人形自体は二番町にあるのですが、山車は肴町の所有でして、この経緯がまた摩訶不思議。
 一般的には山車人形と山車本体はセットなのですが、これが入れ違っている。その理由が判らないことろがまたどラマなのです。
 10時少し前にJR佐倉駅に迎えにあがり、武家屋敷や佐倉城址公園を案内してから麻賀多神社へ。
 智勇権禰宜が斎主となり、正式参拝をしてから佐倉の街の成り立ちや、御例祭についてお話をしました。
 その後に二番町山車倉に移動して、実物の山車を見学。すぐ近くの大野祭礼委員長宅に保管してある玉乃井龍神の面(おもて)の見学と記録撮影をして、佐倉新町おはやし館に展示してある玉乃井龍神そのものも見て頂きました。
 そこから次の目的地である肴町の前に、私達のお殿様である堀田家墓所を参拝。佐倉では江戸時代がこの前なんですとお話ししました。
 そこから肴町に移動して、肴町の山車人形であれ竹生島龍神と山車に掛ける貝づくしの幕と波の彫刻を見学。
 落合さん、時を忘れるように両町で画像や映像を撮りまくっておりました。
 調査というのは記録を取るのは誰でも出来ますが、それを精査してまとめるのが難しい。落合さんの経歴や実績を思うと、それがちゃんと為されているのだろうと、感心しきりの宮司です。
 後のスケジュールもあるとの事で、JR佐倉駅にお送りする前に旧堀田邸をご案内してお別れとなりました。
 今回は3名の方が来倉されましたが、皆さん佐倉に降り立つの初めて。麻賀多神社の氏子さん方と語らう中で、お祭りが街に溶け込んでいる。
 それが街の成り立ちと神様と人との強い結びつきによるものとの事を、とても感激なさっておりました。
 これは佐倉だけではなく、日本人といく国民性もあると思いますが、外からの評価によって初めて自分達が置かれている状態を理解する事が多いです。
 佐倉のお祭り、お祭り以外でも私達が気付いていない事が沢山あるはず。その気づきを改めて感じました。
 千代田区が企画している件に関しては、詳しい情報が入りましたら、「お知らせ」などでアップしたいと思います。
 落合さんを初め来倉頂いた方、またお世話になった二番町と肴町、また佐倉山車人形保存会の皆さんに感謝です。