屋根と台輪の差が小さいです
屋根裏の墨書き
左三つ巴と法輪
今月12日の六崎、15日の弥勒町に続いて本日午前10時より本町神明大神社において御神輿修営竣工の清祓式を奉仕しました。 本町の御神輿は寛文10年(1670)製作で六崎より3年早いことになります。 これは10年前くらいに屋根を修理した際に墨書きが発見されたもので、それまでは製作年代は不明でした。 今年は製作されてからちょうど350年。今までの神社の記録を遡っても全面解体の修営は初めての事になります。 修営事業は市川市行徳の中台製作所が請け負いましたが、六崎大神輿も同社でお世話になったので、同時期に佐倉の御神輿が2基、行徳へ行っていたことになります。 時は後西天皇の御代。徳川幕府は4代家綱の時代になります。 戦国の世が遠くなたとは言え、仙台伊達家では家督相続のお家騒動。俗に言う伊達騒動の真っ只中。 小説「もみの木は残った」の題材にもなりましたが、幕藩体制強化のために権謀渦巻く時代でもあったのです。 では佐倉はというと、無断帰郷のため改易となった堀田正信公の後に寛文元年(1661)に入封した松平乗久公が藩主。 乗久公は延宝6年(1678)に佐倉から唐津へ移封しているので、寛文時代のお殿様はず〜っと乗久公だったんですね。 因みに乗久公の孫にたる松平乗邑公が再び佐倉藩主として入封するのが享保8年(1723)。 現在の麻賀多神社大神輿は享保6年に作られており、先代大神輿は同時に六崎へ渡っております。 そう思うと寛文の時代から本町では同じ御神輿を担いできたわけで、歴史の長さを考えずにはいられません。 今日も長くなってしまったので最後に一つ書きますが、江戸時代は神仏習合が基本ででした。 今日の七峯に出てきた3基の御神輿はいずれもその時代の物ですね。 なので、御神輿に施されている装飾にその名残を見ることが出来ます、 鏑木と六崎は卍紋が散見されますが、本町は法輪の紋が左三つ巴紋と並んでいます。 当社管轄では佐倉東部と隣接する酒々井西部の御神輿にそのような装飾を見ることが出来ます。 兼務社には調査が済んでいない御神輿も沢山有るので、各教育委員会と連携しながら調査を進めたいと思います。
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