七峯の丘から

佐倉のおへそ [令和5年3月24日]


 ひとしきりの雨が上がった佐倉です。湿った空気が流れているから、今日は花粉は大丈夫かなぁ。
 でも気温が上がるとも言うし、ピークは過ぎたとは言えなかなか花粉の不安感が残る宮司でございます。
 先日、ふらっと久しぶり見た、JR佐倉駅前の案内看板。佐倉市役所が設置しているものですが、北総四都市江戸紀行なる日本遺産のご案内。
 掲載の地図には当然の如く、麻賀多神社が載っておりますが、佐倉の御城下と言うならば若干ではありますが、本来より左に、方角で言うと西に寄っております。
 佐倉の町割りは土井利勝公によって行われました。今から約400年より前の話になります。
 現在の佐倉城を築城していた千葉氏が、豊臣秀吉公の小田原攻めに際し、千葉の地より敗走して火にかけられた新城。
 徳川家康公が関東入府をし、佐倉を江戸の東の守りとして、土井公に再整備を命じたのが、今の佐倉の町割りになります。その際に目印、基準としたのが麻賀多神社なんです。
 神社から西側をお城を含み武家町とし、東側を町人町とした城下町に区分けをしました。
 なので、佐倉の地図を見るとその殆どが、麻賀多神社がど真ん中に載るんです。
 今日に取り上げたJR佐倉駅前の地図ですが、この構図は本町にある順天堂病院を掲載する必要があった為に、神社が中心から少しズレております。
 順天堂病院の前身は佐倉養生所と言いまして、佐藤尚中が麻賀多神社の真向かいに開所しました。
 日本の西洋医学治療の発祥も麻賀多神社と同じ場所。この春は地図を片手に佐倉の街を歩いてみませんか?